メンタルを崩した循環器内科医の話

病んだり自殺した戦友を見送って覚悟はしていた。

でも、どこか他人事にも感じていた。

明日は我が身――

そして、ついにその日が来た。

落日の中で

いつもと変わらないはずの家族との休日。

何だか体調がおかしいので妻に車の運転を頼み、子供と後部座席に座った。

子供が泣き喚くことは日常茶飯事で、気に留めるほどのことでは無い。

だが、この日はいつもと違う。

泣き声が頭の中で拡声器のように響いてくる。

耐えきれない。

いや『耐える』と表すことが、そもそも可笑しい。

次の日の仕事、受け持ちの重症患者、書きかけの論文、家のこと…

頭の片隅にあった関係の無いタスクが次々と大きくなって広がっていく。

情報の波が押し寄せ、「もう無理もう無理もう無理もう無理」と頭の中がぐちゃぐちゃになり、気付いたら自分が叫び、手が震えた。

湧き出る感情を止めようと思っても「無理無理無理無理」と上書きされる。

次第に呼吸が早くなり、口の周りが痺れる。

落ち着いて呼吸すれば治まることは知っている。

でも止められない。

その時の妻の泣き顔は一生忘れないだろう。

人生で初めて過換気になった。

静かな病棟

少し経つと気分は驚くほどスッキリした。

自己判断で動くと危険な気がする。

妻に連れられて精神科を受診した。

世の中には精神科に大きな抵抗を感じる人がいるが、自分は医療職なので抵抗感はない。

むしろ現状打破のために専門家の意見を仰ぐべきだろう。

合理的な判断だ。

精神科の先生からは「何もやる事が無い、暇と思える時間を作って下さい」と助言され任意入院をした。

病棟は空室だらけで閑散としている。

一応施錠されるが、日中の外出は申請すれば自由。

採血のために中年看護師が来た。

「私、採血は得意なんですよ」と高らかに宣言する。

ふーん、と思って眺めていると、目立たない血管に狙いを定めた。

(え、ちょっと待って、そっち!?)

刺し損じた。

二度三度刺された。

血管には自信あったんだけどなあ。

身分を明かしていたので、一番上手な人が来てくれたのは間違いないだろう。

そういう日もある。

一息ついて、荷物を広げ、ベッドに座る。

ここでは食事も洗濯も掃除もやってもらえる。

開放感を満喫しようと、忙しくて遊べなかったゲームを持ち込み、最初の3日間は一切外出をせずに朝から晩まで打ち込んだ。

楽しい。

時間を忘れる感覚は久しぶりだ。

30歳を超えて集中力が落ちた気がしたが、全然そんなことはない。

仕事も家事も子供を寝かしつけた後の一人の夜も、多忙な日々にかまけて没頭できないだけだった。

だって一日中ゲームをしても全然苦ではなかったから。

1週間ほど入院したが何も大きな問題は起きず、退院を申し出た。

鏡を持たない者

たったの1回の粗相だと思っていた。

しかし後に妻からは、数か月前から切迫感や危険な雰囲気はあったと言われた。

確かに、病んで辞めた人の穴を埋めるために休日出勤が続き、上司に「ちょっとキツいです」と相談したこともあった。一蹴されたけど。

それでも「まだ大丈夫」と思っていた。

だが、外から見ると自分が思う以上に異様な状態だったらしい。

職場での態度も不穏だった。

他人の病気は幾度となく診断してきたのに、自分の異常は分からなかった。

振り返れば、眠れない夜が続いたり、道を歩いていて急に涙を流したり、院外コールが続いて病院の電話を着信拒否にしたり、“疲れ”で済ませるには明らかに異常な行動もあった。

でも当時は気にも止めなかった。

ありふれた言説だが「まだ大丈夫」は既に限界なのである。

「早めに受診して」

それはいつも患者に話す言葉だった…

家の匂い

精神科を退院しても即座に復帰はしなかった。

まずは家のことに集中した。

もともと料理は好きだったし、家事も嫌いでは無い。

子供は保育園に預け、日中はゆっくり洗濯や買い物、ご飯の準備をして、いつもより早くお迎えに行って、仕事から帰る妻に料理を振る舞った。

こういう生活も悪くはないと思った。

誰も知らない場所で

しばらく仕事を離れ、異動の日が来た。

急性期だが規模の小さい病院で、毎日心臓カテーテルを行う施設ではない。

誤嚥性肺炎をたくさん診る田舎の病院。

新しい職場の上司にはメンタルを病んだことは伝わっており、個人的にも働き方をセーブしたいとお願いした。

長期で休むことも考えたが、その後の復帰を考えると不都合もある。

過換気発作は1回だけ。少しずつなら出来るはず。

精神科の先生の話ではないが、のんびりすることが解決策だと考えたので、出勤して退勤するくらいの簡単な目標にした。

救急当番も休日夜間の当直もオンコールも全部無し。

たまに誤嚥性肺炎や心不全の入院が回される程度、循環器の手技は助手ばかり。

張り合いは無いが負担も感じない。

少ないけど給料も出る。

もちろん家事もちゃんと出来ている。

沈黙の日々

ゆっくり過ごすことが目標だったが、暇な日常はすぐに焦燥感を生み出した。

Reviseを放置している論文、助手ばかりのカテーテル、受け持ち患者も少なく医局に座り続ける日々。

メンタルを病んだ人が、重要な仕事を任されないのは当然のことである。

その一方で、いつになったら最前線に戻れるのか?再びチャンスは廻ってくるのか?

このまま自分は埋もれていくのか…

そんな葛藤もあった。

循環器内科医として最低限の能力は備わっている。専門医もある。

専門医の資格を持ちながら採血の検体を運搬するだけの、大学病院の特有の雑務も経験した。

夜中も休日も働いて、当直でも待機でも無い休日にデータ収集をして演題を作った医者人生。

お金よりも勤務医を選び、このまま頑張り続ければ道は続いている

 

…はずだった。

仕事がなくて座っているしかないので、余計に将来について考える。

夜ベッドに入っても眠れない。

誰も何も言わないけど分かっている。

皆が気を遣っている。

そして自分も何となく気後れしてしまう。

やる事が無くて医局で過ごす日々は、果てしなく長かった。

仕事は続けたいが、未来は暗闇に包まれている。

とにかく出勤だけでも続けないと、と鞭打ったが、手持ち無沙汰の時間に息が詰まる。

やり甲斐も目標も希望も無い数ヶ月間は、人生で最も苦しかった。

不安や焦りが強まった時のお守りに、ロラゼパムを処方されていた。

使うと一定の成果はある。

ただ、飲んでも胸のざわめきが消えるわけでは無い。

蓋をされる。

ゴトゴト煮えたぎった感情を、薬が無理やり抑えつけて溢れ出ないようにする。

この手の薬を好む人の気持ちも分かる気がした。

自分にとっては抑圧された感覚がかえって不快だった。

表に出てこなくなるだけで、そこに負の感情は在り続けるし、絶望感は消えない。

薬では解決しない。

でも何をすべきか分からない。

循環器内科医を続ける道は閉ざされたかもしれない。

これ以上心臓の勉強をしても無駄かもしれない。

そう思うと、どうしても医学の勉強をする気にはなれなかった。

かといって勤務医を辞める道もない。

後ろ向きな理由での退職は次に繋がらない。

精神の安定のために何か始めようと思ったが、食事や運動には気を遣ってきたし、睡眠はブロチゾラムを飲めば良い。

夜中に平気で電話が掛かってくるこの職業では、不眠に悩まされる人は多く、眠剤の常用はよくある話。

自分もその一人になっただけのこと。

彷徨う日々を過ごす中で、ある時きまぐれで、本当にただの気の迷いで、本を読もうと思った。

出口の無い迷宮で一本の細い糸を見つけたような気がした。

淡い期待もあったし、読書なら勤務中でも責められないと自己擁護もあった。

医学書ではない本を読むのはいつぶりだろうか。

アリアドネの糸

心理学は学びが深かった。

『内省しても自分の中に答えは無い』

『行動をする中で自信が生まれる』

心臓が悪い人にβ遮断薬という心臓の機能を落とす薬を飲ませると長生き出来るように、しばしば科学は直感に反する解決策を用意する。

マインドフルネス(瞑想)を知ったのもこの時。

瞑想なんて仏教か怪しい宗教の話くらいにしか思ってなかった。

とはいえ空いた時間の全てを読書に費やす事も出来ず、定期的に閉塞感に苛まれた。

助手をしている間も現実から逃れられない。

いや、これは…と思う手技内容だと特に辛かった。そして合併症が起きてしまうと余計に。

口を出した方が良かったのかもしれないが、配慮されている立場では憚られた。

でも自分が執刀するなら…

5冊か6冊も心理学の本を読むと、何となく共通の見解が見えてきた。

分野が違っても論文をある程度は読むことが出来たので、いくつか原著にも当たった。

視界も定まらない中、どこに続くかも分からない糸を、一心に手繰っていた。

20冊以上読んだころには、考え方も大きく変わった。

人生の中で色んな後悔があるが、結局その時の自分の選択は仕方が無かったものばかり。

後から何とでも言えるけど、岐路に立たされた人が正解を導くことは難しい。

しかし本は道標になる。

20代に戻ってやり直したいことは読書。

『愚者は経験に学ぶが、賢者は歴史に学ぶ』

本当に鉄血宰相が残した言葉か定かでは無いが、無限の可能性がある若い時こそ著書から学ぶ必要があると思う。

今からでも遅くない、そう思って心理学に限らず、社会学や組織学など他の学問、起業、子育て、医療政策、小説など様々な分野の本を読んだ。

そして良い加減に認めることにした。

自分は勉強が好き。

勉強好きなんて変人に思われそうで嫌だったが、メンタルを病んだから心理学の本を何冊も読んで正しい対処法を学ぶ人も珍しいだろう。

痛みと共に

場末の地域病院にエビデンスは存在しない。

経験則や古い治療が横行している。

医局の関連病院だが、都市部から離れているが故に人材も流動的では無く、凝り固まった人達が支配している。

まあ分かっていた。

田舎の病院に求められる人材は24時間365日働くことであり、質は不問なのである。

勉強して成長する、当たり前の仕事との向き合い方は否定される。

数日カルテを書かない、術後のフォローアップ無し、年次だけ重ねて資格も知識も無いのに偉そうにしている。

そんな病院だから、自分のように沢山働けない人間の評価は低かったと思う。

当直や待機を増やすにつれて、仕事と家庭との両立は厳しくなり、明らかに寝不足になってきて、このままでは二の舞という危機感が強くなり、引き続き一定のセーブは続けていた。

ただ負担については24時間365日主治医コールなんてせず、人数の少ない病院だからこそ効率良く人員を配置すれば良いのに、とずっと思っていた。

心カテの件数が少ないから負担が少ない病院なのでは無い。

完全にoffの日が無い、オンコールが多いことこそが重荷なのだ。

人の集まる病院、成果を出す病院は、工夫をしてスタッフの休息の確保に努めている。

自殺者が出てシステムを変えざるを得なかった病院もあったが、不眠不休はミスや合併症を増やすし、何よりも人が病んで燃え尽きる。

世の中の半数の医師がバーンアウトすることを、多くの医師は知らない。

少なくとも過去の自分は勤務時間中に駆けずり回ることに意義を感じていた。

休日を潰してデータや文献をまとめることも、大変だったが楽しい思い出である。

でも今は拘束時間だけ増えて充足感も進歩もなく、根拠の無い診療の尻拭いや雑用を請け負う。

前に進めない。

医学の勉強をしてスキルを磨いても生かす場が無い。

本を読んで学んだところで、自分には変えようがない組織の問題点が次々と見つかるだけ。

満たされない想いは、がん細胞のように内側から侵蝕する。

周囲から人格者と評判の上司に相談しても、和やかに誤魔化され、大元の問題には手を付けない。

鎮痛剤を処方するだけで、がん細胞に切り込んではくれない。

人徳の所以は他人との衝突を回避する性質にあって、その場を丸めるコミュニケーション能力の高さにあると気付いた。

「あの先生は、ああいう人だから我慢してくれ」

「この病院で成長の機会は与えられない」

そんな内容を見事な話術で繰り広げる。

結局いつも宥めるだけ。

対抗するためにコールドリーディングや影響力に関する本を読んだが、付け焼き刃では年の功には敵わない。

しかし鎮痛剤で「がん」は治らない。

自分の尊厳を脅かす問題は深く根を張り、時間と共に増大した。

がん細胞に呑まれて堕ちるか、痛みに抗い戦い続けるのか、究極の選択だった。

勉強なんてしなければ良かった。

何も知らなければ、数日に一回、1行だけカルテを書いて丸投げ。

そんな割り切った生き方も出来たかもしれない。

でも不平と自己正当化に塗り固められた人達は幸せそうには見えなかった。

ゾンビにはなりたくなかったが、ゾンビに囲まれ抵抗するにも限界がある。

ブロチゾラムに頼るしか無かった。

夜はとても長かったから――

小さな灯火

夜が明けても職場は薄暗かった。

生気を失った病院だった。

医者も他の医療者も、互いを批判し合っていた。

手の施しようが無いと思った。

だが魂の抜けた人達の中に、生き生きとした人もいる。

自身が成長の機会に恵まれず気を落としたように、熱心な彼らもまた同じ想いを抱いているのではないか?

周囲に目が向くようになった。

医師以外の医療職は医師の方針に逆らいがたく、また新しいことを始める上でも医師の協力は不可欠である。

上司に懇願した自分を思い起こし、自問した。

「人に求める前に、お前は何か与えたのか」

まだ何もしていない。

詰まるところ、組織の発展や有能な人を集める上で大事なことは『成長の機会』である。

思えば昔の勤務地での無償のオンコール待機の裏では、チャンスがそこら中に転がっていて、上司はそれをサポートしてくれた。

今の病院には…

無い。

まだ中堅の自分が人に施すなど早すぎると思ったが、上層部は自分の立場を守ることに必死で他人の成長に興味が無い。

だったら自分がやってみたら?

世の中は手が早い人が成功する。

まだ早いと思う今がチャンスでは?

手始めに勉強会を開催した。

ある医師から心エコーのレベルが低いと不満を聞いたら、検査室での勉強会を開いた。

スライドは渾身の逸品に仕上げ、プレゼンも抜かりなく練習した。

原稿の読み上げなんて格好悪いし、途切れ途切れで「あー」とか「えー」では説得力が無い。

3秒以上の間が空くと聴衆は他事を考えるらしいし、やや早口の方が注意が向きやすいとのこと。

スムーズに話せるよう何度も何度もシミュレートした。

誰も聞きに来てくれなかったらどうしようと不安はあったが、一人でも聞きに来るうちは続ける覚悟だった。

まずは与えよう。

最初は気を遣って集まってくれた人もいただろう。

それでも来てくれた人に良かったと思って貰えるような、完成度の高さを追求し、彼らの負担にならず“楽に”勉強できるように工夫した。

何度か勉強会をするうちに良い反響もあった。

新しく始めたいことがある、とコメディカルから提案があった。

上司の最も大切な仕事は部下の進捗の手助けをすること。

そう本で読んだな。

厳密には上司と部下の関係ではないが、医師が主導すると実現のハードルが下がるのも事実。

こちらが勉強して追いつけば良いだけのこと。

勉強は得意だ。

是非とも手伝わせて下さい。

見えてきたもの、見えないもの

かつての自分は、中堅かそれ以上になったらカテーテル手術の執刀は若者に任せて、臨床半分、研究半分で医業に勤しむ姿を思い描いていた。

研究の成果を挙げるどころか続けることすら難しい環境に来てしまったが、自分の知識や経験が誰かの成長の糧になる。

嬉しいことだった。

論文、業績、客観的な成果が全てではない。出世もしなくて良い。

過去の自分が追い求めた“目に見える証”を捨てたとき、心も体も軽くなった。

野戦病院での経験から手技で困ることはない。

むしろカテーテル治療が速くて驚かれる。

ちょっと自慢に聞こえるかもしれないが、自分のレベルは普通くらいで病院のレベルが低いんだよう…

過ぎし日の努力の賜でもある。

昔の自分に『頑張ってくれてありがとう』と心から感謝した。

今度は10年後の自分に贈り物をしよう。

医師で読書をする人は少ない。

そんな時間は無いからだ。

しかし、だからこそ続けたい。

それは勉強好きな自分のためでもあるし、挫折した自分が逆転するための、他の人には無い力を生む原動力になると信じているから。

何だかんだで家族と過ごす時間も増えた。

自分の言動がおかしくないか、前兆がないか、定期的に妻に確認した。

幼い子供は鋭敏に感じ取っている気がする。

前を向き始めたら、よく遊んでくれるようになった。

いや、自分の見方が変わったのかもしれない。

道を外れずに済んだのは家族が支えてくれたから。

家族への恩返しに2ヶ月に一回くらいは頑張って予定を空けて家族旅行も計画することにした。

あれ、もしかしてこれは…?

 

ある作家は『幸福は白い紙に白いインクで描かれている』と表現した。

派手な着色は不要なのかもしれない。

鮮やかさを手放しても、大切なものは手元に残っていた。

今のやり方が正しいかどうかは分からないし、まだまだ悩むことも多い。

しかし一つだけ確かなことがある。

気付いたら、ブロチゾラムを飲まなくなっていた。

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